マウスの顔面表現は潜在的な認知変数とその神経相関を明らかにする
「顔の表情で脳の隠れた認知変数を読む」——Nature Neuroscience最新研究の詳細解説
背景紹介:脳と行動の静かな対話
動物と人間の行動科学分野では、これまでの理論は主に“意図的”で適応的な運動、すなわち行動そのものが課題達成や目的追求のために生じるものに注目してきた。しかし、長年にわたり科学者たちは、脳活動が「無意識」に身体表現に漏れ出し、一連の非随意的・非適応的な運動や表情を生み出すことにも着目してきた。これらは「偶発運動」(incidental movements)や「偶発的な顔の表情」と呼ばれ、ポピュラー心理学では感情や内的状態と関連していると考えられているが、生物学的および神経科学分野では体系的な神経学的証拠が十分ではなかった。
近年、身体運動、特に顔の表情が単なる感情のマーカーに留まらず、動物の複雑な認知変数(cognitive variables)、例えば記憶・意思決定・内部状態を反映できることが明らかになってきた。例えば、げっ歯類の姿勢は作動記憶の内容を反映でき(参考文献3,4)、ヒトでは意思決定の過程で腕の反射強度が感覚的証拠の累積を追跡できる(参考文献5)。また、動物の瞳孔径は照明のみでなく、覚醒レベルや不確実性状態も反映することが分かっている(参考文献10–12)。これらの発見は、従来の認知科学・行動学の境界を広げ、身体表現が非侵襲的インジケータとして、脳で進行中の隠れた認知計算を“読み出す”ことができるか――またこうした「漏れ出す」変数が果たして課題遂行だけに関係したものなのか、それとも行動の目的を超えて、さらに深い認知ダイナミクスを示唆し得るのか、という根本的な問いを提起した。
しかし、この分野では中核となる課題がある。すなわち身体運動が本当に認知変数を反映しているのか、あるいは単に運動そのものと課題遂行の物理的必要性が関係するだけなのか、である。例えば、ある偶発的な動きが報告行動(ボタンを押す、首を振る など)と関連しているだけで、本当に内部の認知計算を映すわけではない可能性がある。それゆえ、課題遂行や報告から独立した「抽象的」認知変数が身体表現として現れるかどうかは、この仮説の検証に不可欠である。
論文出典と著者チーム
本研究論文はNature Neuroscience(volume 28, November 2025, 2310–2318)に掲載され、タイトルは“facial expressions in mice reveal latent cognitive variables and their neural correlates”(マウスの顔の表情は隠れた認知変数とその神経関連性を明らかにする)。主な著者チームは、Champalimaud Foundation(ポルトガル・リスボン)、Institut de Neurosciences de la Timone(フランス・マルセイユ)、Departement BEL, Centre CMP, Mines Saint-Etienne(フランス・ガルダン) などの機関からFanny Cazettes, Davide Reato, Elisabete Augusto, Raphael Steinfeld, Alfonso Renart, Zachary F. Mainenが参加。神経科学・認知科学・動物行動科学など幅広い領域にまたがり、一流研究機関のリソースが結集したチームとなっている。
研究ワークフローと実験の詳細
この研究はマウスを対象とし、高度に革新的なマルチモーダル研究設計により遂行された。主なプロセスは以下の通り:
1. 行動課題設計——確率的採餌意思決定課題
実験マウスは頭部を固定した状態で線形トレッドミル上に置かれ、2つの人工的な採餌ポイント間を自由に行き来できる。各採餌地点の報酬状態は隠れた状態(rewarding/depleted)によって制御される。マウスは水飲み口で蔗糖水を舐めることで報酬を得るが、1回の舐めで90%の確率で1μlの水を受け取れる。舐め行動には30%の確率で「現在の報酬サイトを使い果たす」イベントが発生し、使い果たすと他方の採餌場所に移動して初めて再び報酬を得られる。意思決定の核心は、マウスがどのタイミングで現餌場から離れるかを判断し、証拠の蓄積や報酬・罰の統合といった複雑な認知戦略を駆使して選択している点である。
行動戦略の区別とモデリング——LM-HMMアルゴリズム
研究者は隠れマルコフモデルと線形回帰(LM-HMM)を組み合わせてマウスの意思決定戦略をモデリングし、各時点で用いられている「意思決定変数」を解析した:
- 推論ベース戦略(inference-based strategy):連続失敗回数(consecutive failures)の累積のみに依存し、報酬が発生するとリセット。
- 刺激依存戦略(stimulus-bound strategy):得られた報酬(negative value)に依存、報酬が多いほど長く滞在し、変数は報酬累計で変化。
- 衝動的推論戦略(impulsive inference strategy):短期的な衝動によるもので、高いバイアスが意思決定を決める。
ネストされた交差検証と最尤推定により、マウスが異なる時間帯で3つの戦略を切り替えていることを安定的に判別でき、各戦略下の意思決定変数の表現も正確にフィットできた。
2. 神経・行動の同時記録
同時記録は下記のデータからなる:
- 行動データ:高フレームレート(60fps)のカメラで舐め行動時の顔動画を取得。
- 神経データ:Neuropixels多電極アレイ(374記録点)を使い、二次運動皮質(secondary motor cortex, M2)などの多次元的ニューロン集団活動を記録。
- 動画データ処理:オープンソースツールFacemapを用いて、動画から「動きエネルギー」特徴を抽出し、特異値分解(SVD)で100次元の顔運動主成分(principal components, PCs)を得る。
3. 顔の表情と隠れた認知変数のマルチモーダルデコード
- 多変量回帰(GLM):運動PCsを説明変数とし、連続失敗・negative valueといった隠れ認知変数を予測。正則化線形モデルと厳格な交差検証を適用。
- 潜在的交絡因子の処理:各意思決定変数と動作結果や舐め速度を直交化し、相関性を除去して各々の「唯一」の寄与を明らかにする。
- 空間表現解析:重み加算合成で、隠れ変数がマウス顔面上でどう空間的に表現されているかを再構成し、異なる個体・異なる課題条件間の表現の一貫性を比較。
4. 神経起源実験と因果検証
- 遅延解析:神経発火と顔運動に対してスライドウィンドウ遅延GLM回帰を行い、M2・眼窩前頭皮質(OFC)・嗅覚皮質(OC)など各領域と顔表情のデコード精度および時延を比較し、因果関係を探る。
- 光遺伝学的介入:Vgat-ChR2マウスを用い、青色光でGABA作動性ニューロンを活性化(M2を抑制)して、課題の30%サイクルでランダムにM2をクロージャし、顔動画を同時録画。顔表情による隠れ認知変数のデコード精度や時延に及ぼす影響を解析。
主な実験結果とその論理関係
(1)行動戦略と隠れた認知変数の識別
LM-HMMにより3種の戦略が明確に識別され、それぞれの戦略下でマウスは主に異なる意思決定変数に依存していることが示された。多変量ロジスティック回帰によって、連続失敗変数は推論型戦略をより良く説明し、negative value変数は刺激依存戦略と強く関係していることが示された。
(2)顔の表情は多様な認知変数を高度に表現
- 顔運動主成分(PCs)は、行動を直接制御している認知変数だけでなく、行動表現されていないが脳内で計算されている“潜在”認知変数まで精度よくデコード可能。
- 顔の異なる部位の動きエネルギーは変数ごとに特徴的な分布パターンを示し、例えばnegative value変数は鼻部の運動で強く、連続失敗はより微細な動きで現れる。
- こうした表情は個体間でも極めて一貫性が高く、同じ個体の複数回実験でも非常に安定している。
(3)顔表情の“認知変数リザーバ”機能
実験では、たとえマウスが現在ある認知戦略を採用していなくても、該当する認知変数は顔表情に明瞭に現れ、そのデコード精度は戦略には依存しなかった。これは顔表情が脳内で並行して計算される複数の認知変数を“漏れ出す”——すなわち“認知リザーバ”機能を持つことを示している。
(4)神経-顔表情の時延と因果
- 顔表情とM2領域ニューロン集団活動による認知変数デコード精度は同等で、顔表情による認知変数反映はM2ニューロン活動(約50 ms)よりやや遅れて現れる一方、OFC・OCの関連はより弱く時延も長かった。
- 光遺伝学的M2クロージャによって、マウスの顔表情は変化し、隠れ認知変数のデコード精度が有意に低下・時延が遅れ、その変化幅は運動エネルギー変化と高く相関していた。
研究の結論と科学的意義
本研究は、動物の顔表情が単なる感情の反映にとどまらず、脳の複雑な認知変数のリアルタイムな“漏洩ウィンドウ”であることを全面的に証明した。これら顔の微細な運動は、たとえ行動として表現されていない場合でも、脳で並列計算されている複数の意思決定変数を正確かつ安定的に反映できる。さらに、顔表情の表現は部分的にM2領域の神経活動に由来し、顔表情が神経―認知―行動の重要なインターフェースとなることを示した。
科学的に見ると、本研究は認知変数の“多重漏洩”という特性を明示し、行動出力が即時の意思決定だけを反映するという従来観を覆し、動物認知および神経行動学に新しい視点をもたらした。応用面では、顔表情の非侵襲的モニタリングにより動物やヒトの内的状態の読み取りが期待でき、神経記録技術の代替や疾患診断、人間―機械インタラクション、スマートヘルス分野などへの活用が見込まれる。
研究の注目点とイノベーション
- 新しい実験フロー:マルチモーダル・神経/顔運動の同期記録、革新的な“LM-HMM”モデルによる複数認知変数の直交化解析。
- 手法の革新:ビデオの高次元運動エネルギー主成分から行動関連・非関連の認知変数をデコード、顔表情が“潜在認知変数の漏洩ウィンドウ”として科学的合理性を実証。
- 因果検証:光遺伝学的にM2領域因果的クローズにより、顔表情による認知変数表現の神経基盤を確認。
- 高い一貫性:複数マウス間および同一マウス複数回の試験で顔表情表現が極めて一貫性・安定性に優れることを確認し、広範な生物学的意義・汎用性が示唆される。
- 課題横断的汎用性:顔表情は緩やかな認知変数(例:試行番号)や他課題(例:聴覚2AFC課題)でもタスク非依存的にデコードが可能。
追加的な価値情報
本論文は、急増する非侵襲的ビデオや生体認証技術によるプライバシー保護問題にも警鐘を鳴らしている。顔表情など生体特性は“内部活動”を明らかにする極めて大きな潜在力があり、今後は倫理や法規面でより効果的な保護策の制定が期待される。また、研究開発された分析ツール(FacemapやLM-HMMモデルなど)はすでにオープンソース化され、全世界の研究者に貴重な資源を提供している。
総括と展望
本研究は、動物の顔表情と脳の認知変数の関係の暗号を解き明かし、「行動―脳」から「表情―認知」へと認知神経科学の新たなパラダイムを推進した。将来的には、精神疾患診断、インテリジェント監視、ヒューマンマシン・インタラクション等の現場でさらなる社会実装が期待され、多分野連携の基盤的研究となるだろう。