外的および自己運動の空間手掛かりがプレイスセルのθ位相多重符号化を制御する

海馬体時空コードの新展開—多重化されたθ(シータ)位相コードと外部・自運動手がかりによる調節メカニズム

——Nature Neuroscience最新論文「allothetic and idiothetic spatial cues control the multiplexed theta phase coding of place cells」を評して

1. 学術的背景と研究動機

空間ナビゲーションおよび記憶は神経科学分野で長年注目されてきたテーマであり、海馬体(hippocampus)は脳内認知マップ(cognitive map)の生成と維持に不可欠な構造として、空間情報の符号化および検索の中核的機能を担っている。海馬体がどのように内外の空間手がかりを統合し、安定かつ柔軟な空間表象を形成するかは、理論・実験両面において長年の課題となっている。

本研究は海馬体の主要細胞である「場所細胞(place cells)」がθ(シータ)リズム下で示す時間的符号化メカニズムに焦点を当てた。θリズム(約8 Hzの局所場電位振動、local field potential, LFP)は海馬体に重要な「時間窓」を提供し、空間計算の時間的足場とみなされている。場所細胞の発火は動物が場所場内を移動する際、系統的に位相移動(phase precession)を起こし、単一細胞の発火時刻が空間位置を符号化することで圧縮された空間系列(theta sequence)を構築し、将来の経路の推測や空間的意思決定を可能にする。一方で、θリズムの初期位相は回顧的(retrospective)な空間表象や、新たな連合の符号化(encoding)等の機能も担っている可能性が指摘され、初期位相が「位相プロセッション(phase procession)」やシナプス可塑性のメカニズムに関与するとの見解もある。しかし、θリズムの早期・後期位相の機能分化およびその神経メカニズムに関しては、体系的な実験的検証が不足しており、特に動物が外部ランドマーク(allothetic cues)と自運動情報(idiothetic cues)を統合する状況での理解は進んでいない。

θリズムの多重化された位相コードの本質および外部/自運動手がかりの調節作用を解明するためには、意図的に競合する空間手がかり状況を構築し、新たな実験系——仮想現実「ドーム(planetarium-style dome VR, Dome)」装置、電気生理、計算モデル等の手法を組み合わせて、その動態を深く探究する必要があった。本研究はまさにその学術的背景や課題を受け、実施されたものである。

2. 論文情報と研究チーム

本論文は、国際的なトップ神経科学誌Nature Neuroscience(nature neuroscience | volume 28 | october 2025 | 2106–2117)に掲載された。著者代表はJames J. Knierim、主要著者はYotaro Sueoka、Ravikrishnan P. Jayakumar、Manu S. Madhav、Francesco Savelli、Noah J. Cowanら。主たる研究機関はJohns Hopkins University(Solomon H. Snyder Department of Neuroscience, Zanvyl Krieger Mind/Brain Institute, Department of Mechanical Engineering, Laboratory for Computational Sensing and Robotics, Kavli Neuroscience Discovery Institute)、ブリティッシュコロンビア大学、テキサス大学サンアントニオ校等で構成される。用いられたデータの一部は過去の関連研究にて報告済みであり、本研究では新たな観点・解析に活用された。

3. 詳細な研究プロセス

1. 仮想現実空間分離実験系の設計・実装

研究者らは独自の「ドーム」仮想現実プラットフォームを利用した。装置は半球型プロジェクション殻と環状のランニングトラックで構成され、動物のナビゲーションに用いる。環状トラックは一次元空間軌道を提供し、ドーム内部表面には静止または回転可能な視覚的ランドマーク群を投影。動物は臂架で中心に固定され、報酬機構・光学エンコーダによるリアルタイム運動記録、周囲雑音遮蔽のためホワイトノイズ等が準備された。実験では、異なるフェーズで以下のようにランドマークの表示を変えた:

  • 実験ゲインg(gain)機構:ランドマークの移動速度と動物の実際の走行速度の比。g=1ではランドマーク不動、g>1でランドマーク逆方向移動(知覚速度が速い)、gでランドマーク同方向移動(知覚速度が遅い)。
  • 複数参照系による同期記録:全ての空間データはラボ参照系だけでなく、ランドマーク参照系および海馬体(認知地図/hippocampal gain, h)参照系でラベル化。

2. 実験動物と記録

本研究では5匹のオスLong–Evansラット(5–8ヶ月齢、個別飼育、厳格な動物倫理基準遵守)を用いた。CA1領域の場所細胞をマイクロ電極アレイで記録し、1回の実験で平均4.74±3.54ユニットの細胞が得られた。

3. 実験手順と主要設計

  • Epoch 1(ベースライン、g=1):ランドマーク静止、標準的な空間表象を確立。
  • Epoch 2(ゲイン変化):ゲインgを線形に変化させランドマーク回転、自己運動とランドマーク空間情報の競合状況を作出。
  • Epoch 3(競合維持、g=g_final):ランドマークを一定速度で回転維持し、持続的に空間手がかり競合させ、ラットがランドマーク/自己運動関係を学び続ける必要がある状態を実現。
  • Epoch 4(ランドマーク消失):全ての視覚的ランドマークを消去、照明リングのみ点灯、海馬表象は主に自己運動情報によって駆動されるため、内因的な符号化メカニズムを検証。

4. データ解析とアルゴリズムの革新

  • 空間場の標準化とθ位相解析:各細胞の場を異なる参照系で規格化し、円-線形回帰(circular–linear regression)でθ位相と空間位置の関係を解析。特に単一周回毎の分析(single traversal analysis)により符号化の多様性を明示化。
  • スパイク位相スペクトル(spike phase spectrum)と系列圧縮係数(compression factor):細胞発火の位相振動周波数、およびθ周期内の系列圧縮度を評価。
  • 連続アトラクタネットワーク(continuous attractor network, CAN)計算モデル:外部・自己運動手がかりをガウス入力として独立にモデル化し、フィードバック抑制(feedback inhibition)を組み込み、θ位相コードの二様式ダイナミズムをシミュレート。

4. 主要な研究成果の詳細

1. 場所細胞は外部ランドマークに強くロックされ、競合状況下でもランドマークが空間場を支配

ドーム実験のほとんど(40/51セッション)で、場所場(place fields)は回転するランドマーク参照系で高い安定性を示し、ランドマークが回転すれば場所場も一緒に回転した。つまり、ランドマーク参照系では場の大きさ分布が一定だが、物理的な移動距離はgの変化に比例して縮小・拡大する。空間手がかり競合時でも、外部ランドマークが海馬地図を圧倒的に支配する事実が示された。

2. θ位相プレセッション(phase precession)はランドマーク参照系で安定して維持され、空間手がかり競合でも変化しない

g値にかかわらず、全細胞の発火はランドマーク参照系において典型的な位相前移(phase precession)を示した。動物が場を横断するにつれて発火位相が前倒しされ、θプレセッションの傾き・相関係数・位相オフセットなども一定だった。この構造はランドマーク参照系全体の「スケーリング」と連動し、海馬体符号化は最も顕著な空間手がかりに優先してロックされることを裏付けた。

3. θリズム調節型発火頻度(bursting frequency)が自適応調整され、符号化構造を維持

g≠1時、安定した位相前移構造を担保するため、ラットはランドマーク参照系で場を横断する距離や速度を変え、細胞はθ周波数関連の発火バースト頻度(spike phase spectrum解析)を能動的に調整した。正規化位相前移速度(npr)はゲインに応じて線形変化し、空間系列がθ周期で常に精確・一貫した符号化を保つことを保障した。

4. 単一周回解析によりθ位相符号化の多峰的構造を発見:二種位相モードが共存し、予見的・回顧的空間符号化に対応

詳細な単一周回解析で、一部の周回は負の傾き(phase precession優位、将来位置予測)が主で、他は正の傾き(phase procession優位、歩行履歴回顧、新規連合形成関連)が主。不均一な分布(双峰性)で、正傾き符号化はθ初期位相により偏り、既報の逆順theta系列やシナプス可塑性関連領域と一致した。

5. 持続的な空間手がかり競合・ランドマーク消失は選択的にphase procession(θ初期位相コード)を損ない、後期の予見的符号化は保持

gが1から逸脱した場合やランドマークが消失した場合、正傾き周回(phase procession)は明確に減少し、second lobe index(SLI)などの指標が低下。負傾き(phase precession)は構造を保つ。持続的な新規手がかり学習や空間予測誤差信号はθ初期位相発火を大きく抑制し、回顧的もしくは新規連合型のコードを抑制しつつ、空間予測機能を確保する。

6. 神経回路レベル:CA3・内嗅皮質入力が外部/自己運動情報を協調的にθ位相コード調節

発火とγリズムのカップリングを分析すると、ゲイン競合は中周波γ(medium gamma)だけでなく低周波γ(slow gamma)のカップリングにも影響し、CA3・EC III両系統が外部/自己運動手がかりを同時に符号化すること、および多重化符号化メカニズムによる調節を示唆した。

7. CANモデルで符号化モードの選択性が空間手がかり相対強度・フィードバック抑制により調節されることを解明

CANモデルは、ランドマーク・自己運動入力の強度が不均衡や位置ずれだとフィードバック抑制が強まり、選択的にphase procession(processing lobe)が消失する一方、precession lobeは維持される現象を明快に再現した。phase processionは空間手がかりのバランス時にのみ維持されることが示され、多峰的θ位相符号化の回路力学的・計算論的根拠となった。

5. 結論と学術的意義

1. θ位相符号化には機能的多重化(functional multiplexing)属性がある

本研究は、CA1場所細胞のθ位相コードが予見的(phase precession)と回顧的/新規連合型(phase procession)という二大機能モジュールを持つこと、しかも空間手がかり状況によって独立に調節できることを体系的に示した。予見的符号化は堅牢で、最も顕著な空間手がかりが主導し、空間ナビゲーションを保障。一方、θ初期位相符号化(phase procession)は環境の新規連合形成需要や手がかり競合時に選択的に弱まり、記憶形成あるいは回顧的評価機能を担う可能性がある。

2. コード切り替えのメカニズムは普遍性・進化的意義が大きい

本研究は、海馬体が新規環境連合形成時に機能的切替えメカニズムでナビゲーション・空間予測を最優先し、新情報符号化をより高い可塑性状態(θ初期位相の樹状突起発火など)に委ねる分担構造を明らかにした。この分化機構は空間ナビゲーションのみならず、非空間認知や他領域にも見られるため、脳神経ネットワークの柔軟な符号化に関する新たな理論基盤となり得る。

3. 技術・手法の革新

ドーム仮想現実システムと空間手がかり競合実験デザイン、複数参照系解析・連続アトラクタモデルの組合せは、空間認知神経科学に新たなツールキットを提供し、ニューロン符号化・参照系選択・記憶形成・干渉など複雑なテーマを探求する上で広範な応用可能性がある。

6. 研究のハイライトと応用的価値

  • 海馬体θ位相符号化の二重化メカニズム、および外部/自己運動手がかりによる精密な調節機構を初めて実証。
  • 継続的な新情報学習需要下での多重化符号化の動的変化を実証し、伝統的理論と実験のギャップを補完した。
  • 空間予測・回顧的系列符号化・新規記憶形成という三大認知プロセスを神経時系列活動の構造と直接的に関連づける新規理論枠組みを提示。
  • ドーム仮想現実技術と連続アトラクタモデルの融合が、神経回路力学や認知機能障害介入研究に新展望を開く。
  • 人工知能の空間ナビゲーションやロボティクス認知地図など、他分野への波及的示唆も大きい。

7. その他有益情報

論文末尾には詳細な方法論記述を収録し、今後の追試や拡張研究の雛型となる。文献レビューでは海馬体空間符号化の歴史文献を体系的に整理しており、この分野の発展を俯瞰する上での基本的参考資料となる。著者は今後のtheta-γカップリング状態、参照系選択、階層的パス依存メカニズム等について展望しており、研究の新しい方向性を切り拓いている。

8. 総括

本研究は仮想現実競合実験と革新的アルゴリズム解析によって、海馬場所細胞のθリズム下の位相符号化の多重化的本質、および外部ランドマーク・自運動手がかりの複雑な関係を明確に分離した。予見的・回顧的符号化の分業は、認知マップの柔軟性と記憶形成メカニズムを理解する新範例となり、神経科学と認知工学の学際的革新に強力な原動力を与える。