キラル生物結晶における電子スピンとプロトン移動の結合

学術的背景

プロトン伝達(proton transfer)は、生物エネルギー変換(ATP合成など)やシグナル伝達において中心的な役割を果たす。従来の理論では、プロトンは水分子鎖やアミノ酸側鎖を介した「ホッピング機構」(hopping mechanism)によって輸送されると考えられてきたが、近年提唱された「プロトン共役電子移動」(PCET, proton-coupled electron transfer)仮説では、電子移動がこの過程に同期して関与する可能性が示唆されている。生命システムは高度なキラリティー(chirality)特性を持つため、「キラリティ誘起スピン選択性」(CISS, chiral-induced spin selectivity)効果——つまりキラル環境で電子が移動する際にスピン分極(spin polarization)が生じる現象——がこの過程に影響を与える可能性がある。本研究はリゾチーム(lysozyme)結晶をモデルとして、プロトン伝達効率と電子スピン状態の量子関連性を初めて明らかにした。

論文の出典

この研究は、イスラエルのヘブライ大学Yossi Paltielチームがベン・グリオン大学、ワイツマン科学研究所などの機関と共同で行い、*PNAS*(2025年5月、vol.122 no.19)に掲載された。責任著者にはRon Naaman、Nurit Ashkenasy、Yossi Paltielが名を連ねている。


研究の流れと発見

1. 実験系の構築

研究対象
卵白リゾチーム(hen egg white lysozyme)を用いて単結晶を調製し、気相拡散法(hanging-drop vapor-diffusion)により約300μmの正方晶系結晶を得た。グルタルアルデヒド架橋により構造を固定化。

革新的なデバイス
- マイクロメートルサイズの電極アレイ(2μm間隔)を設計し、ニッケル(Ni、強磁性)と金(Au、非磁性)電極を交互に配置
- 80 mTの外部磁場を用いてNi電極の磁化方向を制御(N極上向き/S極上向き)
- 環境湿度(60-80% RH)と温度(23-35°C)を精密に制御

2. プロトン伝導の電子スピン依存性の検証

重要な実験
- 直流I-Vテスト:70%湿度下で、N/S磁化方向のNi電極間で電流差が20%に達した(図1d)
- インピーダンス分光法:Nyquistプロットでは半円の半径が磁化方向によって変化し(図2a)、等価回路モデルから抽出した緩和時間(relaxation time)はN分極時(18 ms)がS分極時(60 ms)より3倍速いことが判明
- 同位体対照実験:D₂O環境ではスピン効果が減衰し、フォノン(phonon)の関与が確認された(図3c)

メカニズムの検証
- 金電極対照群では顕著なスピン効果が見られず(図1e)
- 第二高調波測定(second harmonic generation)で、非対称な加熱応答がスピン注入方向と関連していることが確認され(図4c)、フォノン-電子結合が実証された

3. 環境パラメータの調整

湿度の影響
- 80%湿度ではCISS効果が60%時の1/3に低下(図3b)。これは水分子を介したプロトン伝達がキラル格子の作用を弱めるため
- 温度が35°Cに上昇すると効果が増強(図3d)。これはフォノン輔助輸送理論と一致


核心的な結論と価値

理論的ブレークスルー

  1. PCETメカニズムの検証:生物結晶において初めて、プロトン伝達効率が電子スピン状態によって調節されることを証明し、「プロトン共役電子移動」仮説を支持
  2. キラリティ-スピン-フォノンの三元結合:新しいモデルを提案(図5)——キラル環境が電子スピン分極を誘導→キラルフォノンを励起→プロトン伝達の障壁を低減
  3. 量子生物学の意義:生物システムにおいてスピンの自由度がエネルギー/情報伝達に関与する量子メカニズムを明らかに

応用の展望

  • バイオセンサー:スピン制御を利用した高感度プロトン検出デバイスの設計
  • バイオミメティック材料:キラルフォノン結合による新型プロトン導体の開発
  • 疾患メカニズム:ミトコンドリア機能障害などプロトン伝達異常疾患の新たな研究視点を提供

研究のハイライト

  1. 手法の革新性

    • 強磁性電極と生物単結晶を組み合わせたハイブリッドデバイス設計
    • 第二高調波測定によりフォノン-スピン相互作用を可視化
  2. 発見の独創性

    • CISS効果を初めてプロトン輸送領域に拡張
    • D₂O環境で効果が減衰(図3c)。フォノンの関与を直接証明
  3. 学際的価値

    • 量子物理学(スピン分極)、生化学(プロトン伝達)、材料科学(キラル結晶)の3分野を接続

補足情報

理論モデル
修正Warburgインピーダンス式(式1)を提案し、スピン分極パラメータをプロトン移動度計算に組み込む。フィッティング精度はR²>0.98(SI付録図S2)

データ公開性
すべての生データはPNAS補足資料で公開されており、以下を含む:
- 12種類の湿度条件におけるインピーダンススペクトル
- 5種類の電極配置でのI-V曲線
- 原子間力顕微鏡(AFM)による結晶形態データ