米国および英国の高齢者における健康寿命と寿命の加齢速度分析
——「Pace of Aging」手法に基づく集団縦断分析
一、研究の背景および学術的意義
世界的な人口高齢化の進行に伴い、高齢者の健康状態を客観的に評価・改善することが、各国社会政策や公衆衛生分野の重要課題となっています。従来は「寿命(lifespan)」や「健康寿命(healthspan)」といった指標で人口の高齢化を評価してきましたが、これらには限界があり、特に「出生初期要因(例えば妊娠中のケアや幼少時の栄養状態)による健康格差」と、「成人・高齢期における継続的な加齢過程に伴う可変的な健康変化」とを有効に区別することができません。従来指標では中高年期の介入策の効果をタイムリーかつ高感度で反映することが難しく、また健康格差等の集団間現象の内在的メカニズム把握も困難です。
こうした課題に対応するため、研究者たちは個人や集団の「老化速度(pace of aging)」——すなわち生物学的機能が時間とともに低下する速度——の定量化方法について積極的に探求を進めています。この指標は、静的な健康状態や寿命の終点ではなく、臓器・組織や機能的能力が年齢とともにどのようにダイナミックに変化していくかを捉えることに重点を置いています。老化速度の測定を通じて、政策立案者が人口健康の動向をより精密に把握できるだけでなく、公衆衛生介入政策の設計・評価を支援することができ、「健康長寿(healthy longevity)」科学の推進に資することが期待されています。近年では、生物学的年齢(Biological Age)やエピジェネティッククロック(Epigenetic Clock)などの測定法がいくつも開発されていますが、それらの多くは静的な測定にとどまり、ライフステージにおける健康格差の蓄積を強調するものの、老化過程の動的速度を反映してはいません。
これを踏まえ、本研究は「適応型老化速度測定法(adapted pace of aging method)」という、大規模かつ全国レベルの集団縦断コホートにも適用可能な新しい指標の提案と検証を行いました。当代の人口健康科学や健康高齢化政策に対し、より感度が高く、実践的価値のある新しいツールを提供することを目指しています。
二、論文出典および著者チーム
本研究はオリジナル論文《Pace of aging analysis of healthspan and lifespan in older adults in the US and UK》として、2025年6月に国際的権威誌「Nature Aging」に掲載されました。
著者チームはColumbia University Mailman School of Public Health、Duke University、Stanford University、National Institute on Aging、Norwegian Institute for Public Healthなど、世界有数の研究機関から構成され、責任著者はDaniel W. Belsky(Columbia Aging Center)です。
三、研究の進行および技術的手法の解説
1. 全体構成と設計
本研究は、アメリカ「Health and Retirement Study(HRS、健康と退職研究)」およびイギリス「English Longitudinal Study of Aging(ELSA、英国老年縦断研究)」という2つの代表的全国コホートの長期追跡データを用い、標準化かつ汎用性のある老化速度計測スキームをそれぞれ実施しました。主なプロセスは以下の通りです。
(1) サンプル選定と収集
- HRSコホート:2006年~2016年のデータを用い、初回年齢40歳以上で、期間内に少なくとも2回の血液、生体および機能指標測定があり、かつ6項目以上のバイオマーカーを有する個体13,358名を選出しました。
- ELSAコホート:2004年~2012年のデータ、対象者5,687名。同様のプロセスを採用。
- いずれも全国代表性を持つパネルで、マーカー測定カバレッジや、後続の生存・機能・疾病等の健康アウトカム・データが豊富です。
(2) バイオマーカー体系の統合と標準化
老化や健康科学のコンセンサスに基づき、両コホートで長期追跡された9種の加齢関連バイオマーカー(血液・生理・機能テスト)を選定しました: - C反応性タンパク質(C-reactive protein, CRP;炎症マーカー) - シスタチンC(Cystatin-C;腎機能マーカー、ELSAでは未測定のため血色素Hemoglobinを代用) - 糖化ヘモグロビン(HbA1c;糖代謝) - 拡張期血圧(Diastolic blood pressure) - ウエスト周囲径(Waist circumference) - 肺活量(Peak flow) - バランス能力(Tandem balance) - 握力(Grip strength) - 歩行速度(Gait speed)
全指標は性別・年齢群ごとに標準化し、スコアの逆・順変換をおこない横断的比較を容易化(日常機能低下型は逆転換)。
(3) 縦断解析と「老化速度」指標の算出
- 線形混合効果モデル(linear mixed-effects model)を活用し、各マーカーごとに「個体-性別-フォローアップ年数-ベースライン年齢」の多変量モデルを構築し、各人のマーカーごと年間変化傾向(斜率、すなわち年ごとの機能低下度)を抽出。
- 9項目の斜率を統合して個人ごとの「老化速度」スコアを算出(65歳未満かつ同性別集団の平均年間変化率を1.0と基準化;1を超えれば加速、1未満で減速)。
- ELSAコホートでも同型の測定・検証体系を並行開発し、国際横断比較が可能となりました。
(4) 関連健康アウトカムデータの収集と追跡
- 死亡率(Mortality):HRSは2021年まで追跡
- 慢性疾患発症(Chronic disease):医師診断/自己申告の新発症
- 障害発症(ADL/IADL):日常生活や手段的活動の障害出現
- 認知障害・認知症(Cognitive impairment/Dementia):認知評価およびインタビューに基づく
- ELSAは2018年までのデータのため、一部死亡・認知症分類はなく認知スコア中心
(5) 指標の妥当性・感度・社会経済関連性の検証
- 「老化速度」と死亡・疾病・障害・認知障害との予測関連を多面的に評価(ROC曲線、リスク比、相関等含む)
- 性別・年齢・人種・学歴など、異なる階層・集団での指標動態・傾向も解析
- 多様な「生物学的年齢」測定法(血液化学、生理年齢モデル、エピジェネティッククロック等)と健康アウトカム予測力を比較し、本手法の独自価値を確認
2. データ解析およびアルゴリズムの特長
(a) 独自の「適応型老化速度」計測法
- バイオマーカーの斜率(生物変化速度)自体に着目し、静的値ではなく老化プロセスの動態的評価を初めて実現。
- マーカーやデータ密度の制約を問わず、世界の多拠点大規模集団に適用可能。
- 薬剤介入などにより生理値が非線形変化する項目(例:脂質、収縮期血圧など)は事前に除外。
(b) 統計モデルの科学性と厳密性
- 混合効果モデル・ポアソン回帰(Poisson regression)・Cox比例ハザードモデル・ROC曲線など多様な統計手法を駆使し、効果量や信頼性を多面的に検証。
- 年齢・性別・喫煙歴・BMI・教育歴等の交絡要因も包括的に調整し、サンプル選択バイアスを極力排除。
四、主な研究成果とデータによる論証
1. 老化速度の人口分布特性
- HRSの13,358人データでは、老化速度値は正規分布を示し、男性が女性より、年齢が高いグループが若年高齢者より高い傾向(平均1.49、標準偏差0.89)。
- 「白人」と比較して、黒人およびヒスパニック系アメリカ人は老化速度が有意に速い(Cohen’s dは0.20と-0.07)。
- ELSAでも同様の傾向が認められ(各種指標間の相関も高い)ましたが、性別や人種差は幾分小さめ。
2. 老化速度と健康アウトカムの関連性
- 老化速度が速いほど、今後10年間の死亡リスクが明確に上昇(HR=1.83)。
- 慢性疾患発症率(IRR=1.08)、ADL障害(IRR=1.58)、IADL障害(IRR=1.49)、認知障害(IRR=1.57)も老化速度増加とともにすべて有意上昇。
- これらの関連は様々な集団(性別・年齢・学歴・人種)で一貫しており、表現型エピジェネティッククロックや従来の生物学的年齢より予測力が高い。
3. 指標の感度と安定性(ロバストネス)検証
- 任意の単一マーカーを除外した「leave-one-out」解析でも、総合的な予測力はほぼ維持され、データの堅牢性が高いことが示された。
- BMIなど基準値の要因は、一部アウトカム(ELSAの認知能力)を除けば大きな影響なし、老化速度の独立性が強調された。
4. 生物学的年齢・エピジェネティッククロック等との比較
- 血液化学で算定の生物学的年齢と老化速度との相関は中程度(r=0.3-0.4)だが、生物学的年齢同士の相関はより高い(r=0.6-0.8)。
- 死亡・障害・認知損傷の予測能力は、老化速度が他の手法より(または同等レベルで)優れていた。
- エピジェネティッククロック(DunedinPACE、pc Grimage)との相関はr=0.34・r=0.20だが、健康アウトカム予測力や独立性で老化速度の優位性が明らか。
- ROC曲線で、慢性疾患を除く全ての健康アウトカムで最も高いAUC値は老化速度指標によるものだった。
5. 社会経済的・人種差の発見
- 教育水準が低い・黒人/ヒスパニック系・男性の各グループでは、明らかな老化速度加速が確認され、健康格差は寿命だけでなく身体機能低下速度にも反映されることが分かった。
- これは中高年層に対する介入策が集団間の健康格差の縮小に役立つ可能性を示唆する。
五、結論考察および科学的・応用的価値
1. 主な結論
- 「適応型老化速度」は、新たで高感度かつ動的なバイオ老化指標として、大規模集団・多民族・多様な社会経済背景下での高齢健康研究に適用可能。
- 死亡・慢性疾患・障害・認知障害等高齢者健康アウトカムと確かな関連性が認められ、従来の生物学的年齢やエピジェネティッククロックよりも予測力に優れる。
- 老化速度自体が強い社会的階層性・不平等性を示し、老齢化社会の普遍的傾向だけでなく、介入効果の実質評価も可能。
- 政策立案者・公衆衛生実務者・生命科学研究者が健康高齢化を評価・モニタリングするための強力かつ有効なツールを提供できる。
2. 主な革新点と研究上のハイライト
- 自適応型測定システム:単一・高コストな「オミクス」データに依存せず、血液・体格および機能試験の長期追跡データのみで国際比較まで可能に。
- 動的予測能力:集団・個人単位で「時系列の生物機能鈍化」を健康政策モニタリングに持ち込んだ初の方法論的アプローチで、静的な生物年齢法に優る。
- 健康格差定量の進歩:生物指標という客観的基盤から、社会構造・行動と健康高齢化経路との深い関連性をより精確に明らかに。
3. その他有用な情報
- 研究用データベースと解析コードが完全公開(GitHubリンクは論文末尾参照)されており、国際的な再現や普及が容易。
- 独自手法は今後数十の大規模人口コホートや政策的ニーズにも応用可能で、「健康高齢化」研究・評価の新たな国際スタンダードとなる可能性が高い。
- チームはDunedinPACE等エピジェネティッククロックの開発者でもあり、大規模コホート統合や手法革新の豊富な経験を有する。
六、展望と限界
- 測定時点の密度がやや低め(多くは3回計測)であり、データが増えればモデルによる非線形変化分析も進展可能。
- 超高齢層(80歳以上)が少なく、今後は更なるサンプル拡充による適用性検証が必要。
- バイオマーカー体系の一部は薬物介入等で除外されているが、依然として多システムの老化速度全般を十分評価可能。
七、まとめ
本研究は老化速度の集団指標体系の理論・実証の両面で基礎を築き、健康高齢化分野における計測上の難問を打開しました。この手法によって高齢者の健康格差を動的に捉え、標的型介入を設計可能であることを明示し、世界の健康長寿戦略や精密公衆衛生政策の科学的意思決定に新しいツールを提供したと言えます。今後、コホート観察期間の延長とデータのさらなる充実により、老化速度測定法は「人類健康長寿」評価・促進の重要な礎石となることが期待されます。