健康寿命のプロテオミクス指標の開発と検証

1. 学術的背景:寿命の延長から健康寿命の促進へ

20世紀以降、世界的な医療と社会経済の発展により、人類全体の寿命(Lifespan)は著しく延び、特に発展途上国で顕著です。しかし、健康寿命(Healthspan)――すなわち重大な慢性疾患や機能障害がなく、全体的な健康状態を維持して生活する年数――は寿命と同じペースで伸びていません。これが世界的な「健康寿命ギャップ」(healthspan-lifespan gap)を生み出し、多くの人が寿命こそ延びても高齢期に慢性疾患や障害、機能低下を抱えて過ごすことが増え、社会・経済・医療へ大きな負担となっています。

こうした課題に対応するため、抗老化生物学の分野では「ジェロサイエンス」(Geroscience)という研究パラダイムが現れました。従来のように個々の疾患のみを対象とするのではなく、Geroscienceは老化の進行に関連するコアな生物学的メカニズム(炎症、免疫異常、代謝異常、細胞機能障害などの「老化の表徴」hallmarks of aging)を同時に標的とし、全身性の慢性疾患を抑止して健康寿命の延伸を目指します。

この分野の研究発展に伴い、さまざまな生物学的指標(Biomarkers of aging)が提案されています。これらは老化状態の評価や疾患・死亡リスクの予測に用いられ、臨床生理パラメータ、血液バイオマーカー、オミックス特徴(エピジェネティクス、プロテオミクス、メタボロミクス等)、および総合スコアモデルを含みます。しかし、現在、多くは「寿命バイオマーカー」あるいは死亡リスク予測因子に焦点があたり、健康寿命を直接反映するバイオマーカーは事実上空白です。これは主に、健康寿命の定義に統一がなく、バイオマーカー開発に長期・大規模かつ健康な個体の長期追跡が必要という困難さに起因します。これは単に寿命や個別疾患の予測よりも遥かに難度が高いのです。

このため、「健康寿命」の定義に基づき、個人の健康状態変化を高精度で予測し、集団間や疾患横断、介入応答にも使える「健康寿命バイオマーカー」の開発が、臨床転換や抗老化介入研究の鍵となる課題・最前線のホットトピックとなっています。

2. 論文の出典および著者の背景

本論文は、米国科学アカデミー紀要(PNAS: Proceedings of the National Academy of Sciences)2025年第122巻第23号に掲載された、独創的な研究論文「A proteomic signature of healthspan」です。著者はChia-Ling Kuo(第一著者・通信著者、University of Connecticut Health Center)、Peiran Liu、Gabin Drouard、Eero Vuoksimaa、Jaakko Kaprio、Miina Ollikainen、Zhiduo Chen、Luke C. Pilling、Janice L. Atkins、Richard H. Fortinsky、George A. Kuchel、Breno S. Dinizら。米国コネチカット大学ヘルスサイエンスセンター、フィンランド ヘルシンキ大学、英国エクセター大学など、複数のトップ機関が関与しています。

論文は2025年6月6日に公開され、PNAS「直接投稿」カテゴリに入り、国際的研究者Ana Maria Cuervoが編集を担当しました。データは主に英国バイオバンク(UK Biobank)とフィンランド ツインコホート(Finnish Twin Cohort)から、プロテオーム測定はOlink Explore 3072のハイスループットプラットフォームを採用。研究設計が厳密、サンプル数が大、技術が革新的で、学術的価値と臨床応用の前景が広い論文です。

3. 研究デザインと方法の詳細

1. 研究目的と全体設計

本研究は、大規模なプロテオミクスバイオマーカー――「健康寿命プロテオミクススコア」(Healthspan Proteomic Score, HPS)を開発し、個人の健康寿命(すなわち、癌・糖尿病・心不全・心筋梗塞・脳卒中・COPD・認知症・死亡等の主な健康イベント発症までの期間)を正確に予測、かつその予測性能を異なる集団・アウトカム・測定尺度において検証し、その臨床応用価値を評価するものです。

具体的な設計は以下の通りです:

  • UK Biobank(UKB)Pharma Proteomics Project(PPP)大規模コホートでHPSモデルを開発
  • 独立サブサンプル、フィンランド「Essential Hypertension Epigenetics Study」外部コホートなど複数コホートで交差的かつ外部バリデーションを行う
  • 横断面・縦断追跡データ、多層次の蛋白・エピジェネティクス等生物学的年齢スコアモデルを比較
  • 蛋白質レベルと臨床健康指標、様々なアウトカムを紐づけ、潜在的な生物学的メカニズムを解明

2. 主要な実験フローと手順

(1)サンプル由来と基本特性

  • UKB PPPコホート:53,018名のUKB活動参加者(2006-2010年募集、40-70歳)を抽出、そのうち43,119名は健康寿命の定義に該当する基礎重大疾患なし。主要解析集団として、70%をトレーニングセット(30,184名)、30%をテストセット(12,935名)に無作為分割。
  • プロテオーム測定:Olink Explore 3072プラットフォーム利用により、UKBサンプル血漿中の2,923種類の蛋白質発現を測定。心血管・炎症・神経・腫瘍等多機能系統カバー、厳密なバッチ補正およびK=10のKNN法による欠測値補完。

(2)HPSの開発とモデル化過程

  1. 健康寿命の定義
    最先端研究に倣い、健康寿命を「個人が生まれてから初めて以下いずれかの疾患と診断されるまで」と定義:悪性腫瘍(非黒色腫皮膚癌除く)、糖尿病(1型・2型・栄養失調型)、心不全、心筋梗塞、脳卒中、COPD、認知症、または死亡。

  2. 特徴選択とモデル構築

    • LASSO(最小絶対収縮および選択オペレータ)Cox回帰モデルを利用し、2,920蛋白+年齢指標から最も予測力の高い項目を厳格に選択。複雑度を制御しつつ、最終的に86蛋白+年齢を保持し、偏差もほぼ最適を維持。
    • これら特徴に基づきGompertz生存モデルを構築。各サンプルの今後10年間で主要イベント初発生リスク(Rh)を計算し、1-RhをHPSと定義――値が低いほどリスクが高い。
  3. トレーニング/テストおよび交差検証

    • トレーニング集団でモデルを開発、テスト集団で独立バリデーション。多様なバイオロジカルエイジスコア(Proteomic Aging Clock, PAC、PhenoAge、BioAge、Protage-EN等)や表現型指標との比較を通して、多疾患・死亡などアウトカム予測力と汎化性を評価。

(3)主なデータ解析と統計手法

  • Spearman相関係数、Wilcoxon順位和検定、Aalen加法ハザードモデル、HarrellのC統計量等、多様な統計手法を用いる
  • 年齢・性別・人種・教育歴に加え、BMI・喫煙状況・高血圧・高コレステロール・雇用・コホート構成等、多階層共変量で交絡を極力調整
  • 多重比較はFDR(Benjamini-Hochberg法)で厳格に偽陽性をコントロール
  • すべての蛋白データを正規化・逆正規変換し、生物情報学的解析はFUMA等ツールでパスウェイ富化・機能アノテーション

(4)外部検証

  • フィンランドEssential Hypertension Epigenetics Studyのデータを利用し、フィンランド双生児コホートより401名(血圧表現型・死亡・縦断追跡・プロテオームおよびエピジェネティックデータを完備)を抽出。HPSの他欧州コホートへの適用性・拡張性を評価し、DNAメチル化・メタボロミクスなど多次元生物年齢指標と直接比較。

3. 主な実験結果と論理構成

(1)健康寿命アウトカムとサンプル表現型

  • UKB PPPトレーニング・テスト大集団では、基礎重大疾患のない約28.8%が13.5年追跡期間中に健康寿命定義アウトカムを初発し、癌・心筋梗塞・糖尿病・COPDなどが主原因。初発年齢の平均は約66.7歳。
  • HPSによるグループ分けでは、慢性的疾患やリスク群(男性、高齢、喫煙、肥満、高血圧/高コレステロール)はベースラインでもHPSが有意に低く、生物学的年齢分層性と早期生物学的変化感受性が示された。

(2)HPSと生物学的年齢・臨床アウトカムの関連

  • HPSは実年齢と中等度の負の相関(r = -0.73)、PAC等蛋白時時計(r = -0.87)、表現型年齢スコア(PhenoAge、BioAge)(r = -0.79、-0.74)とも強い負の相関。Frailty Index(虚弱指数)との相関は弱い負。
  • 多変量回帰・生存解析の結果、HPSが低いほど10年以内で主要慢性疾患・死亡リスクが顕著に増――0.1点減少ごとに新規発症1600例/10万人年に相当。低HPSグループは多疾患・死亡・癌タイプ等全てで生存/健康予後が悪い(Kaplan-Meier生存曲線分離、HR=0.1単位低下ごとに死亡リスク55%上昇)。

(3)プロテオーム生物学的メカニズムとHPSロジックの裏付け

  • 統計的解析でHPS低値群固有の上昇/低下蛋白(計1398種、Bonferroni補正済み)を抽出し、免疫応答・炎症反応・細胞シグナリング・代謝調節など26のhallmark経路で強く富化、蛋白質組と老化生物学の実質的繋がりを裏づけ。
  • PAC等従来型寿命時時計との直接比較では、HPSは多くの臓器系疾患・死亡・複数アウトカムでより優れたまたは同等の識別力を示し、また両者併用でさらに強力な予測性能と応用範囲の拡大が得られる。

(4)外部検証と一般化性能

  • フィンランドEH-EPIコホートでも、HPSは死亡・糖尿病・メタボロミクス指標等と顕著に関連し、低スコア群で死亡率が高く、安定した性能を示す。DNAメチル化時計、他プロテオーム指標との同時バリデーションで、HPSの予測力はより強いか同等、種族横断応用の可能性を示唆。

(5)統合・交互作用解析

  • HPS低+PAC高の人は「最悪の生物学的老化群」にあたり、健康群(HPS高+PAC低)、単一指標偏位者の中間。この統合分型は、現時点で臨床的に健康でも、既に全身的生物学的変調を示す高リスク群を抽出でき、予防的老化介入のターゲット人群選抜に寄与する。

4. 研究の結論、科学的価値と応用展望

1. 主な結論

  • HPSは健康寿命プロテオミクススコアとして、健康~中年グループにおける将来的な主要慢性疾患・死亡(健康寿命終了)リスクを正確に予測でき、年齢・性別・喫煙・肥満・既往疾患など様々なサブグループにも優れた分層能力を発揮
  • HPSは全身レベルの生物学的老化状態(systemic biological aging)を反映し、老化表徴(hallmarks of aging)に関わる機能障害進行を捉えるもので、単一臓器や単一イベントに限定されない
  • HPSは従来のプロテオーム・エピジェネティクスの「寿命スコア」とも関連するが、独自の健康リスク層別軸を提供し、複数measureの組み合わせで健康アウトカム予測・精密医学的層別化を強化できる
  • HPS応用により、抗老化介入の対象者スクリーニング、効果評価、臨床試験の中間・代替アウトカムとして、追跡期間短縮や試験効率化を実現し、Geroscienceの臨床転換と健康長寿社会の推進が期待できる

2. 科学的・応用的意義

  • 科学的価値:健康寿命バイオマーカーの空白を埋め、健康長寿社会と生涯型慢性疾患予防に新たな精密ツールを提供し、プロテオミクスと老年医学の融合を先導
  • 応用展望:HPSは次世代生物学的年齢測定ツールとして、疾患リスク評価、高リスク者スクリーニング、介入評価、創薬、保険・公衆衛生政策制定など幅広い場面で臨床/産業転換の可能性を持つ

5. 研究のハイライトとイノベーション

  • 世界初の大規模集団縦断追跡を元に、健康寿命明確アウトカムを用いて蛋白組スコアモデルを系統開発、国際的空白を補完
  • 多領域をカバーする蛋白組信号と老化関与の炎症・免疫・シグナル経路へ強い富化、慢病共通の生物学的メカニズムを解明
  • 大規模・多次元データで英国・フィンランドなど異なる種族的背景にも適用、優れた汎化・外部妥当性を実証
  • 最新蛋白組・エピジェネティクスなど多バイオロジカルエイジモデルと直接比較、システマティックに優劣評価、技術の信頼性と権威性が高い
  • サブタイプ統合により精密な生物健康層別を実現し、個別化抗老化ケアや予防/早期スクリーニング、精密治療に科学的根拠を付与